リアリティのあるソーシャルインパクトを考える

今週は同僚のTさん、Kさんとソーシャルインパクトについて語り合うことが多い。この数カ月というもの、ソーシャルインパクトを掘り下げることにブレストしている時間がけっこうあり、かなり楽しいのだが、「趣味なんですかね、この仕事」などと笑いながら、真剣にソーシャルインパクトの定義を探す。

日々ソーシャルインパクトのことを考えるのが仕事の人なんていない世の中で、これは幸せな話だ。


今日のお話は、ソーシャルインパクトという言葉に一度でも思いを巡らせたことがある人になら、少しは響くかもしれない、と想って書いている。


この事業、この活動、このプロジェクトにソーシャルインパクトがあります、と言うのは簡単な話だ。実際のところ、言うのは簡単、行うは難し。
だから、NGOにいた時代から、例えば、「この援助活動は、ケニアの子どもたちの何人が初等教育を受けられるようになりました」と言うアウトプットの出し方に対して、疑問を抱いていた。この成果の数字の意味することは何なのか?


確かに、初等教育を受けられるようになったことは有り難いし、それが社会の根本を変えて行ってくれるだろう。そういう期待はある。だけれど、もし初等教育を受けた人たちが皆中等教育の段階でドロップアウトせざる得なかったら?彼らが高等教育まで行けたけれど、職にはつけなかったら?彼らが自分たちの知識を貧困に対する怒りのあまり、ゲリラや反体制活動にしか使わなかったら?
つまり、「So what?」なのだ。


ソーシャルインパクトの定義による。何をインパクトの要因とするか、がまず重要であるし、どのような手法で効果があったと考えるかが重要だ。

一つ重要なのは数値化したとしても、私にとっては実際に手に入る数字が重要と考える。どうもシミュレーションの数字の世界は苦手だ。

排出権CO2のシミュレーションをしていたことがあったが、どうも苦手だった。キャッシュフローをひいてもひいても、本当にこの数値のCO2が削減できるのか謎だった。


ソーシャルインパクトを語る上で、本当にそのキャッシュフローをひいてみて、納得できる形でこれだけは実現される、という数値を見つけたい、というのが私の思い。それはプロジェクトによって違うのだ。

Sustainable developmentはきれいごとではないからこそ、リアルな実態を求めたい。

期待値をいかに表現していくか。これは一つのアートの世界である。目指すべき世界を数値や金銭価値や事業価値といったもので、どのように表現していくか、というのはアートの世界だと想う。あとは表現力が問題だ。