環境の歴史を知ってこその 環境ビジネス

「実は温暖化はCO2のせいで起きているのではない」とか、「実は温暖化は起きていない」とか、言う人がたくさん出てきているようなので、「ふうん」と思っていたのですが、やはりそういう議論というのは「成長の限界」のストーリーを忘れているだけなのだな、と今日、父と話していて思いました。

父は槌屋治紀と言って環境関連の研究者なのですが、環境問題が認識されるずっと前から研究を続けていて、それはもう、家庭をたくさん犠牲にせざるを得ないくらい(笑)世間とずっと戦ってきているが、その闘争精神は受け継いだかなあ、と思う。

まずそもそも、温暖化という話だけでみると、環境問題は表層化してしまう。そうではなくて、根にある部分は、石油資源の枯渇なのだ、と。石油が2050年になくなることに対して、何かしなければならない。エゴイスティックに言えば、地球がどうにかなってしまっても仕方ないが、石油がなくなった後にどうやってエネルギーを作り出していかねばならないのか。父はそこに焦点を当てていた。それで土を掘り返してエネルギーを得る狩猟型から、太陽の下で生産する耕作型エネルギーの時代へシフトすることを、私が生まれた年くらいの時に書いている。

私もこの考えに同意するのだけど、私は自分の発想が1830年代にさかのぼってしまうことを否めない。
これは温暖化でもCO2の量でも石油埋蔵量を増加させることでもなく、私からすると、「人間が自然とどう対峙していくか」という問題に見える。

マルクスが生まれ、産業革命がおこり、消費社会が発達した時代が今の世界のあらゆるインフラとなる思想を生み出しているのだが、その時がどんな時代だったかを考えると、自然と社会の融合していた中世の時代から近代が訪れ、次第に自然との蜜月がおわり、引き裂かれていく。その痛みに対して敏感だった人たちもいれば、自然と敵対し狩猟型の発想で自然から活用できるリソースをすべてしぼりとろうとする考え方を持つ人もいた。

人間の思想の源泉を辿っていくと、経済も、社会も、法律も、すべてが人間が自然とどう対峙するかの中で作られているように思えるのだ。

深淵を嫌い、ビジネスはスピードが勝負と急ぎ足になることが多いが、根本的に何が問われているかに立ち上らなければ、次の時代に必要となってくる「環境」をイメージできないだろう。