仕事人間と家族人間

日本でよく聞かれるのが「そんなに飛び回っていて、家族は大丈夫ですか」という質問で、大丈夫かどうかは旦那に聞いてみないと分からないけれど、「多分、大丈夫なんだと思います」と答えています。(今のところ、破綻していないので…)
昨日も、彼もたまたま日本に出張に来ているので、この話をしたら、「やっぱり聞かれる?こっちも聞かれる」と笑っていたくらいだから大丈夫なはず 笑。


日本や仕事場ではファシリをしたり、物事を仕切らなくちゃいけなくて、「家でもそんな感じに仕切っているんですか」とも、よく聞かれます。(笑)決してそんなに仕切り屋ではありません…

そして女性の方から最近「どうやって仕事と家庭を両立しているんですか」と聞かれるのですが、やや困惑気味です。


この言葉って日本でよく使うけど、深い意味を考えずにつかっていたなあ、って今では思うのです。

まず、「家庭」ってなんだろう、「仕事」ってなんだろう。
日本にすまなくなってしまって、放浪的ノマド仕事になったとたん、この定義がまったく違うものになってしまった、のではないか。


「家庭」ってなんだろう、ということで旦那に話してみましたが、「うーん、自分らの家庭というのは、家に帰ったらおかえりー、っていうそれが家庭だねえ」という感覚しかないのと、それだけでいいんじゃない、という感覚しかない。その「おかえりー」が一番重要なのだから。
結論として、「家庭」はカップルによって違う、という話に。


多分「家庭」という言葉が持ってる重みや責任みたいなものはあまり感じていないのかもしれないです。
むしろ、私にとっての家庭は、帰る場所であり、一緒にいると安らぐ人がいて、お気に入りの枕があり、すぐアルファー波が出てきて眠くなって、一日ぐうたらしていても許される場所です。(多分、うちの夫に聞けばわかりますが、「寝すぎなくらい寝てる」のが私です… すみません)
あとは、好きな本や映画のDVDが山のように積んであって、実験場のように植物を育て始めようとしていたり、工作道具が並んでいたりするだけです。(子ども部屋と変わらない…。)


掃除や洗濯やご飯というのも家事があるでしょ、といわれますが、それは家庭であろうとなかろうと、どこかでやらなくちゃ生きていけないので、ひとつひとつ楽しんで、楽しくないものはやらない、という非常にざくっとした割り切りをしています。
(子どもが生まれたらそうもいかないのかな)


みんなそんなもんなんじゃないんでしょうか?


一方でそこまで自分ががむしゃらに働いている感もないので、多くの人が聞いてきた質問の中にある「仕事」の定義も違うんだろうなあ、と思っています。


自分が仕事人間だと思われていることが意外だったので、日本で色んな人と話すうちにあまりに仕事人間だと思われているのでびっくりしてしまったのですが、実態としては、イギリスにいる時は本当に適度に自分の範囲内の仕事をしているだけです…。(すみません)
公園をのんびり歩くし、美術館にも行くし、映画なんて週に2本くらい見ているし…、散歩でうろうろしているし。
日本に帰ると死ぬ程働かないといけないのは、日本のソーシャル・プレッシャーが強いからに違いないと思っていますが…


もともと、やめた仕事。それがラッキーにも素敵な会社のチームたちのおかげで、またやらせてもらっている、という感覚もあるためか、まったく拘束されている感覚を持たずに仕事をしているというのも理由の一つ。いつ予算カットで辞めになっても仕方ないし、そしたらそれはそれで、自分でサバイブしていかなくちゃな、というものもある。そのためにいつでも辞めることを前提に、毎月毎月生きていく。会社へのロイヤリティは高いつもりだけど、ごめんね、さようなら、となってもへっちゃらにしておかないといけない。寺山修司の「さよならだけが人生だ」ではありませんが、それでもいいと思えるようにいつも思っている。


だから、私にとっては家族が一番。私にとって、家族との「さよなら」はないからです。(破綻した時は家族を辞める時なんでしょうけど、それまでは…笑)
家族と仕事どっちとる、と日本で辞める時に言われた時は、「もちろん夫です」と即答した。だから、今がある。今月は旦那と一緒にいたいので、ということで出張の日程を変えてもらうこともあるので、会社のチームには理解してもらって生きているなあ、と思うこともしばしば。


その一方で、旦那との財布は別なので、仕事は仕事でしていかなくちゃ、自分の好きな本や音楽も買えないのは困る。ということで、仕事も生きる糧として大切。そして、それが人間の尊厳だと思う。エンパワメントの仕事をしている限り、自分の尊厳の由来を常に考えてしまう。
また夫もいつ辞めても大丈夫なように、生活費くらいは稼げるようになっておけたら、ということで生きている。
イギリスに移ってきてからは、私の収入も激減して困っていたので、仕事が安定化するまでの間は夫に支えてもらっていたし、次は彼がそうなるかもしれない。彼は自分の好きな時に会社を辞めたり、勉強をはじめたり、冒険にでかけたりするのがいいと思う。なので、私もそれまでに仕事を安定化させる。これを「代わりばんこ投資」とうちでは呼んでいる。笑


そんな小さな小さなルールや二人の間の慣習が、少しずつ出来上がってきて、それでどうにか生きている。
二人が自由に生きていくためにも、二人はそれぞれ好きなように仕事ができるのが一番心地いい。どっちかだけの負担でもなく、どっちかだけの意思でもなく。


今でも父が仕事人間だったのを思い出し、うちの母が私に「ちゃんと家に帰りなさいよ、(そうじゃないとパパのようになってしまうよ)」としかってくれるのを思うと、自分は今までの人生で沢山、何度も何度も、仕事とはなにか、家庭とはなにかを考えさせられてきたのだ、と強く思う。
宗教のように、人間のコアを作り、信じる場所、よりどころにすべき場所を作ってくれるのが家族ならば、それは一生の中で何よりも大切。


自分の尊厳も大切。家族の尊厳も大切。仕事の尊厳も大切。
まだまだ、いろいろな試行錯誤を続けていきたいとおもいます。