ニーズとウオンツの違いは何か。

最近パートナーと話をする時間が結構ある。色々な作業を一緒にしなければならないからだが、その中で、商品を企画し、作り出し、売り、販売計画にのせ、世界中の生産ラインをコントロールしながら・・・という一連のビジネスの意味について、二人で討論をした。

結局のところ、NY帰りで時差ボケが猛烈な私にとって、この話はNYで得てきたことを赤裸裸に多国籍企業の論理にぶつけてみることのトライアルなのだが。


私たちの議論は広く及んだ。

NYで、私はBOPのためのデザイナーとニーズとウオンツの違いについて、延々と話し込んで帰ってきたのだが、彼女と達した結論は、「この世の中は無駄なものが多すぎる!」

私はシンプルで、本当のニーズを満たす製品を作り出すことだけにビジネスを絞り込んで行くべきであると考えている。
それが最も美しいビジネスのデザインだ。

だが、今の日本をみてみると、ウォンツばかりである。
私のパートナーとも、ウォンツについて話こんだ。何がウォンツで何がニーズか。その境界線はどこにある?誰が決めることでもない、生活のコンテクストの中に、埋め込まれているのだ。

私が自分のたとえを使った時、それが的確にニーズとウォンツを指し示しているか分からなかったが、私の中では一つの答えだった。
自分が、東京にて消費社会の中である程度の金を稼ぎ、その金を使って毎晩誰かと話や食事をして知識を得て、ある程度の格好をしないと入れない店もあるのでちゃんとスーツを着て、それなりの身なりをし、ビジネスをし、ある程度認められる、というスパンの消費サイクルをしているとしよう。
この生活は私にとってはウォンツの塊だ。


だけど、私のニーズはパートナーと共に過ごすことであり、家族を愛することであり、子どもを育てることであり、親に愛情を返すことであり、皆に私と過ごした時間がとても良かったと想ってもらえるだけの愛情を受け取ったり与えたりする、そういうことがニーズだ。

ウォンツはなくなっても私は私らしく、生き残ることができるけれど、ニーズがなくなったら私は今の私ではなくなってしまうだろう。

ウォンツとニーズの違いはそこなのでは?と語った。

ある日、日経新聞を読んでいて、とあるゲーム会社が「夏を思い出すために、ビールの缶をあける音を再現するゲーム」を作り出して売り始めたのを知った。
このウォンツの塊の商品に対して、私は、ニュースを聞いて、ぞっとしたものだ。この東京の、消費社会の中で、ぞっとした。このニュースを満員電車の中のiPodで聞いた時、私はそんな消費社会の中に埋め込まれた自分の存在を知って、ぞっとした。
ここから早く抜け出さなくては。

そんな商品を誰が買うのだろう。そもそも、そんな商品を誰が作りたいのだろう。作っている人たちは本当に幸せなのだろうか。ちょっとした話題になることがそこまで幸せなのだろうか。


ウォンツだけが増殖する消費社会は決してサステイナブルではない。サステイナブルな消費と生産は、このウォンツの意味不明な競争の上には絶対に成り立たない。

これから私たちが描いて行かねばならないのは、そうした商品の生産、デザイン、そして消費だ。